論文

某雑誌に掲載されました。初稿は2007年2月くらいだから、結構かかった。1年以上寝かせていたからな。。。
結構親しい知人や先生と並んで掲載されていた。若干気恥ずかしい。

(以下戯れ言:私見なのでスルーしてください)

私的おきまりのプロセス:考える→書く→(意地でも)載せる

研究者としての評価=論文の数×クオリティ
クオリティはもちろん大切である。しかしそもそも論文がないと評価もされません(ゼロだからby326)。
クオリティは本数を重ねるに比例して向上します(私見)。比例の係数はひとそれぞれですが。

書かないで、投稿しないで、コメントや査読を受けないで、それでもきっといつかすばらしい論文が書けると思っている人は、根本的に間違っています(超私見)。
自分の置かれている環境が悪い、指導教官がひどい(指導してくれない・権力がない・アカハラする etc)、さらには俺に比べてあいつは恵まれている的な怒りや妬みのような発想の存在を、私は否定しません。所詮人間ですし、研究というきわめて特殊な状況で心を病んでいる人はたしかにいます。そんな人には最大限のフォローを惜しまない人間でありたいと常々思います。メンターなしでは、人は往々にして壊れます。

しかし、どんな理由があれども、博士課程以上になって論文を書かないことを免罪してはいけません。書かないことには何も変わらないからです。自分ができることをやるしかないのです。

とりあえず、葛城ミサトの言葉を挙げておきます。

「いい加減にしなさいよ!人のことなんか関係ないでしょう!嫌ならこっから出て行きなさい!エヴァや私たちのことは全部忘れて、元の生活に戻りなさい!あんたみたいな気持ちで乗られるのは、迷惑よ!」(「雨、逃げ出した後に」より)

「あんた生きているんでしょう!だったら、しっかり生きて、それから死になさい!」(「Air」より)